6月28日(土)、ツーリングレポート。
愛媛県 愛南町 御荘(みしょう)の馬瀬山、山頂にある紫電改展示館(入場料無料)。
太平洋戦争末期、日本の本土防衛のために使用された最新鋭迎撃戦闘機。(当時の)
太平洋戦争末期、日本の本土防衛のために使用された最新鋭迎撃戦闘機。(当時の)
メーカーは川西航空機(現、新明和工業㈱)
エンジンは中島飛行機(現、自動車メーカー、スバル)製「誉」星型空冷2000馬力。
「昭和20年7月24日、松山343航空隊所属の紫電改21機が長崎県大村基地を飛び立ち、豊後水道上空でアメリカ軍機と交戦しました。
「昭和20年7月24日、松山343航空隊所属の紫電改21機が長崎県大村基地を飛び立ち、豊後水道上空でアメリカ軍機と交戦しました。
この機体はその時の未帰還機6機の内の1機と考えられています。」
展示館入口から展望できる久良湾に着水し、海底で34年間眠っていた日本に唯一現存する機体。
展示館入口から展望できる久良湾に着水し、海底で34年間眠っていた日本に唯一現存する機体。
一人乗りの戦闘機ですが、でかいです。
近くで見れるので細かいところまでわかります。当時生まれていたら整備する仕事を目指していたと思いますね‥多分。
この飛行機を動かしていたチームはどんな思いで働いていたか気になります。
当時の日本の戦闘機のウワサで、大変気になってた事があったのですが。
その1、
「当時の日本の戦闘機は木もしくは竹で出来ていた?」
なんてことを何回か聞いたことがある。
この紫電改は御遺族の希望もあり、原型をあまり変えないよう補修してある。(プロペラも着水時に曲がったまんまにしてある)補修やさび止めがおもな修復内容で外板は、剥がれたままの状態でフレームの骨組みが見える部分もたくさんあるが、どう見ても金属製で
木や竹じゃ出来てないぞぉ! てきとうなこと言いやがって‥
どこが木や竹じゃあぁ!
その2、
「アメリカの戦闘機はいろんな防弾装備が付いておりパイロットの安全性を考えて作っていたが日本の戦闘機はそんなものが無くパイロットは大変危険にさらされていた。」
この紫電改は胴体や主翼の燃料タンクは防弾で自動消火システムも付いていた。
さらに防弾ガラスに防弾板を装備していた。
それでも運動性能は高かったそうだ。
やっぱ、人に聞いた話とかウワサはあてにならない。
百聞は一見にしかずだ、当時の日本の最先端技術を知りたければ現物を見るのが一番いい。素材から加工する技術、いろんな事を良く考えて作ってあるし、パイロットの安全性にも気を配ってある。
ゼロ戦のタイヤは現、ヨコハマタイヤが作っていたそうだ。空爆で工場は狙われたらしい。多分、紫電改のタイヤ(パンクしてた)もヨコハマ製かもしれない。
当時の航空産業は今、自動車関連になってる会社が多いが、
日本の物作りの考え方は今も昔も変わってないのだ。。。
